ジャック・デリダ

2017年4月15日 (土) 21:44時点におけるOchabot (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「== ジャック・デリダ(Jacques Derrida) == アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。社会学者、哲学者、思想家。1930年〜2004年...」)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

ジャック・デリダ(Jacques Derrida

アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。社会学者、哲学者、思想家。1930年〜2004年。

デリダの著作は、アメリカ経由とフランス経由で日本に影響を及ぼした。アメリカでは、ほとんど文芸批評、文芸研究の分野で影響が見られたため、日本でもデリダを言語思想の思想家、文芸批評家的に見るイメージは強い。

しかし、デリダのアカデミックなキャリアは、制度上は社会学者のそれだった。言語思想の著作からも、言語活動が社会生活や政治関係に振るう影響力を解明しようとするモティヴェーションがうかがえる。


デリダは、ニーチェを範に、自分の思想を完結した体系にまとめないよう、注意しながら著述を続けた(脱構築)。

同時代のフランスの思想家にも類例は多いが、この点を重視するなら、「哲学者」と呼ぶより、「現代思想の思想家」と、呼んだ方がしっくりくる。

ただ、デリダも、思想家としてのキャリアはフッサールの現象学研究からはじめていた。

「痕跡」、「差異」、「差延」、「エクリチュール」、「脱構築」などをキーワードに、思想書、評論類を執筆。主に、方法的な懐疑を手法に、原理的な思想を著述した。

文芸作品や絵画の解読(読解)を通して、言語思想を展開した著作も少なく無い。このタイプの批評文芸でもある著作は、脱構築批評の、ことに理論面のルーツの1つを成した。

初期の代表作は、『声と現象』(1967)、『エクリチュールと差異』(1967)、『グラマトロジーについて』(1967)。文芸批評の色合いの濃い著作には、“Glas”(1974)や、『カフカ論 「掟の門前」をめぐって』(1985)などがある。

デリダは、「ポスト構造主義思想の代表的思想家」と、評されることが多い。ただし、これは思想史的な整理で、デリダ本人がポスト構造主義を唱えたことがあるとも思えない。

デリダは、構造主義を対立する考えから否定したわけでは無い。むしろ、静的なイメージの図式で解されがちな構造理解を、自己増殖するような動的イメージに徹底させようとした。日本語では、普通「ポスト構造主義」と言えば、「構造主義の後(の思潮)」と理解される。しかし、「ポスト構造主義」の「ポスト」は、「後期(構造主義)」といった含みで観た方が、わかりがよくなるだろう(デリダに限ったことではない)。

あるいは、日本ではデリダが「ポスト・モダニズムの思想家」と評されることもある。しかし、この括り方にも議論はある。

思想や評論の分野で「ポスト・モダン」を論じたのは、例えば、リオタールボードリヤールなどだ。デリダがポスト・モダンという考え方に賛同していたかどうかや、デリダの思想が「ポスト・モダニズム」とどういう関係にあるか、などは、評価が別れる。

メモ

  • 1930年7月、当時フランス領だったアルジェリアのアルジェ市郊外で生まれる。
  • 1940年、フランス、ナチ・ドイツに敗戦し、ヴィシー政権成立。
  • 1942年、ヴィシー政権の反ユダヤ主義政策で、アルジェリアのリセ(日本の高校、ドイツのギムナジウムに近い)就学を拒否される。地域のユダヤ教コミュニティーが組織した学校への就学を避け、飛び級試験に合格。飛び級試験を受けるにあたっては、書類上ユダヤ系であることをごまかした、とも伝えられている。
  • 1944年、パリ解放。
  • 1948年(〜1949年)、パリに出て、高等師範学校を受験したが失敗。
  • 1951年(〜1952年)、高等師範学校に入学。
    ルイ・アルチュセールに学び、学生だったミッシェル・フーコーピエール・ブルデューらと知己を得る。
  • 1954年、この年から、アルジェリアの対フランス独立戦争。1958年に臨時政府が樹立され、1962年に独立。
  • 1957年、この頃からフランスの複数の大学で社会学の講座が開かれるようになり、社会学の学位が制度化される。
  • 1960年〜1965年、ソルボンヌ大学助手(一般哲学)。
    この頃、雑誌「テル・ケル」への執筆が目立つ。(「テル・ケル」の創刊は1960年)
  • 1967年、『声と現象』、『エクリチュールと差異』、『グラマトロジーについて』と、初期代表作の刊行が相次ぐ。主に、「テル・ケル」での執筆活動がベースになったようだ。
  • 1968年〜1984年、高等師範学校助教授に着任。
    1968年、5月のパリ騒乱の時、デリダは37歳だった。
  • 1981年、チェコ・スロバキア(当時)で、反体制派学者が主催したセミナーに出席。当局に逮捕されたが、外交交渉で解放された。チェコ当局は、麻薬所持容疑で逮捕した、としたが、罪状は捏造だった、とされている。
  • 1983年、国際哲学院の創設に関与し、初代院長に就任。
  • 1984年〜、社会科学高等研究院のディレクターに着任(病没するまで在職)。
  • 2003年、消化器系の癌(膵癌)と診断される。
  • 2004年10月、入院先で病死。
  • デリダの生名は、ジャッキー・デリダ (Jackie Derrida) 。ただし、駄洒落のような言葉遊びを多用したデリダは、生前「自分の名前の綴りを正しくした」と、称したことがある。
    デリダは、初期には、肖像写真を公開することを避けたりもしていた。フランスの著作家(作家、思想家)には、生前複数のペンネームを並行使用して、素性を公にしなかったジョルジュ・バタイユの例もある。デリダの名前の件も、匿名性へのこだわりを遠まわしにほのめかした、洒落の一種だったかもしれない。
  • デリダ自身が唱えた脱構築の考え方からすれば、「デリダが社会学者でもあった事」にこだわりすぎるのも、おかしな事になるだろう。ただ、同様な事は「文芸批評家」や「言語思想の思想家」といった肩書きについても、まったく同様に考えられるべき、という事になる。
  • デリダの著述の大きなモティーフの1つに「西欧近代的な『主体』の概念についての懐疑、再検討」がある(「現前の形而上学」批判や、「同一性」批判、など)。「近代主義批判」という意味なら、デリダも「ポスト・モダニズムの思想家」と言えるかもしれない。
    デリダを「ポスト・モダニズムの思想家」と評すことが妥当かどうかは、「ポスト・モダニズム」の理解にもよるはずだ。

書誌情報

話題まとめ

チャットログ

資料リンク

リンク

TrackBack

テンプレート:trackback