純文学
明治期に、学問的な文学に対して、「文章表現の美学(美的感覚の表現)を重視した文芸」といった意味で唱えられた。
北村透谷の提唱だったが、ロマン主義的だった透谷が想定した「学問的な文学」とは、儒学や国学の伝統を踏まえたものが念頭に置かれていたように思われる。
透谷の唱えたロマン主義と対抗関係を持ちながら、島崎藤村らの自然主義文芸が創作された。後代には、藤村らの自然主義も純文学の内に数えられるようになる。
自然主義文学の系譜からは私小説が書かれるようになったが、今度はこれに対抗するように人間主義的な理想主義を重視した白樺派の文芸が生まれた。
ところが、その後、いわゆる大衆小説が勃興すると、「純文学」も、大衆小説と対照的に「大衆小説では無い文芸」といった大雑把な用法で用いられることが増えた。
しかし、マルクス主義文学とモダニズム文芸の対照などでは、後者が、より、純文学的とみなされるなど、過去の用法は多岐に渡った。
このように「純文学」の内実は、単一のイズム(主義)でも、ジャンルでもなかった。
創作トレンドや文芸思想の対抗関係の内で、より感動的な何かが目指されたときに「より純度の高い文学」といった含みで、唱えられた用語、と考えると分かり易いだろう。
「純度が高い」とは、「不純な要素を含まない、あるいは、できるだけ排除する」といった意味だ。
何が「不純な要素」と見なされるかは、時節時節の情勢や、作家ごとの課題に応じて、様々だったのが実相だろう。
例えば、透谷にとっては「道徳的な訓話」の類が不純な要素だったし、モダニズム文芸では、例えば「物語的な筋立ての面白さ」が不純な要素と目されたりした。
ただ、「純文学」は、傾向としては、どちらかと言うと唯美主義、芸術至上主義の文芸の方が相性がいい用語だった、とは言えるかもしれない。
関連する人物、用語
関連する人物
- 北村透谷
- 明治期の詩人、評論家。1868年(明治元年)〜1894年(明治27年)。没落士族出身。政治家を志し、自由民権運動に参加。政治小説を書こうとしたが挫折。ロマン主義的な劇詩を作した。1888年(明治21年)キリスト教に入信。1893年(明治26年)島崎藤村らと雑誌「文学界」創刊に関わる。1894年自殺。
関連する用語
- 大衆文学
- 用語自体の初出は、「講談雑誌」の1924年(大正13年)春号とされる。「講談雑誌」以前にも、尾崎紅葉ら硯友社の作家陣による娯楽小説はあった。しかし、大衆小説が、大量部数を刊行する現在の商品形態に近い方向で確立したのは、普通、大正期と言われる。
- 唯美主義
- 純粋な美感の表現を目指す表現者の立場。あるいは表現思想、及び表現のトレンド。
小説家が唯美主義の立場をとる場合、例えば、散文詩のような作品制作に向かったりする。 - 純粋小説
- フランスの作家アンドレ・ジイドが唱えた。「小説から、可能な限り物語性を排す」ことを目指した作品とされる。この場合の「物語性」とは、主に「筋立ての面白さ」の類だと思われるが、現在の尺度から見ると、ジイドの作品も充分、物語的な要素を含んでいる。
- 「ジイドが探求した、純粋小説の理念は、後代のヌーボー・ロマンで実現された」と言われることもある。
- 中間小説
- 大衆小説と純文学の中間という意味。言われるようになったのは、第2次大戦後の事。
「純文学の芸術性と大衆小説の商業性を併せ持ったもの」とされることもあるが、この定義を辞儀通りにとれば、売れた純文学はみんな中間小説になってしまう(例えば『ノルウェイの森』など)
中間小説で言われた、「純文学の『芸術性』」とは主題性(内容面での探求度)とイメージされることが多く、実は、これも「純文学」の原義からズレている。(北村透谷が考えた「学問的文学」には、道徳的な内容主題の探求も含まれた) - 芥川賞
- 主に純文学の短編を対象とした文学賞
- ジャンル小説
- 良く純文学とは対置された。
メモ
- 「売れるのが大衆小説、売る気がないのが純文学」と言われることもある。
- 「純文学」というアイデア(理念)は、「推理小説にとっての『本格』」、「SF小説にとっての『科学』」に似たような関係にあるのかもしれない。例えば、廃れたかと思われても、リニューアルされて追及されるとこなど(新本格)。
関連する書籍
話題まとめ
チャットログ
- http://www.cre.ne.jp/writing/IRC/write/2000/03/20000318.html#220000前
- 本来なら「純文学作品」というジャンルが占めていた場所をSFやミステリやファンタジーといったジャンルが埋めて行っているような気がする。純文学と思弁系SFとの境界は、もはや版元でしかないというような作品も増えてる気がする。