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== 東宝 ==
東宝(東宝株式会社,Toho Company, Limited)は、日本の映画製作配給会社(映画会社)。

[[阪急阪神ホールディングス]](阪急電鉄、阪神電気鉄道)、エイチ・ツー・オー リテイリングとともに、[[阪急阪神東宝グループ]]の中核企業になっている。

本社は、東京都に所在。<br />主要な子会社に次がある。
*[[東宝芸能]]
*[[東宝東和]]
*[[国際放映]]

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1932年8月に大阪の阪急電鉄の小林一三により、株式会社東京宝塚劇場として設立される。1934年に東京宝塚劇場を開場の後、有楽座、日本劇場、帝国劇場を所有し、日比谷一帯を傘下に納め、浅草を活動拠点にしていた[[松竹]]と東京の興行界を二分する形勢に。<br />一方、東宝宝塚の設立前年に創設された、トーキーシステムの開発企業、写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)が、1937年に関連会社JOと合併。東宝映画株式会社となる。<br />1949年に東京宝塚劇場株式会社が、東宝映画株式会社を合併。映画の製作、配給、興行および演劇興行の一貫経営に着手、社名も東宝株式会社と改めた。社名前の由来は「東京宝塚」の略である。
<!-- PCLには大日本麦酒なども出資しており、東宝は発足当初から、従来の市井の興行師からスタートした映画会社とは一線を画する、財界肝いりの近代企業として期待と注目、そして反発を集めた。 -->

2次大戦中、東京宝塚劇場、日本劇場は風船爆弾工場となった。戦後、東京宝塚劇場が戦後は進駐軍専用のアーニー・パイル劇場と改名され、10年間、観客としての日本人立入禁止となった。

1946年から1950年にかけて、経営陣と労働組合の対立が激化。1948年8月には撮影所を占拠した組合員に対し武装警官や占領軍の戦車、飛行機まで出動するまでに至る(東宝争議)。<br />この間、大河内伝次郎、長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子の十大スターが結成した十人の旗の会と反左翼の渡辺邦男をはじめとする有名監督の大半は第三組合によって設立された新東宝で活動をすることに。このため東宝は再建不能と言われた。

大スターや大監督がごっそり辞めた後、入社したての三船敏郎らがすぐに主役として抜擢され、若い監督も活躍の場を得やすい状況になった。新東宝はまもなく東宝との関係を絶ち、独立会社となったが、経営が悪化し1961年に倒産。市川崑ら一部は東宝に復帰する。

1950年代の「日本映画黄金時代」とも呼ばれる時期、東宝は1957年からは「東宝スコープ」を採用。『七人の侍』、『隠し砦の三悪人』などの黒澤映画や、『ゴジラ』、『モスラ』などの円谷映画などで隆盛。映画の斜陽化が始まった1960年代にも「無責任シリーズ」、「若大将シリーズ」などがヒット。「社長シリーズ」「駅前シリーズ」なども安定した人気が続いた。
<!-- 財界優良企業らしく健全な市民色、モダニズムを鮮明な作品カラーとし、日本映画が暴力、猟奇、エロティシズムに傾斜していく中でも東宝はそれらの路線とは一線を画し、距離を置いた。上記のシリーズ物が定着する前は現代アクション物も得意とし、後年も『殺人狂時代』、『100発100中』などの異色作に名残を残す。これらは興行的には伸びなかったが、その後の再上映でカルト的な人気を誇った。 -->

1959年には[[ニッポン放送]]、[[文化放送]]、[[松竹]]、[[大映]]と共に[[フジテレビ]]を開局。テレビにも本格的に進出するように。

1960年代から日本映画は斜陽化がはじまった、と言われるが、東宝も観客減少に見舞われた。そんななかでも「大作指向」とも言われる制作体制を維持していたが、カラーテレビの普及が本格化した1970年代になると観客減少は更に深刻化した。この時期、大映は倒産、[[日活]]は事実上ポルノ映画専門に転向した。<br />東宝は、1972年に本社での映画製作を停止、製作部門を分離独立させて発足した「[[東宝映画]]」(設立1971年)、「[[東宝映像]]」(現在の[[東宝映像美術]]、設立1970年)、傍系会社の「[[東京映画]]」(のちの[[東京映画新社]])、新たに設立された製作会社「[[芸苑社]]」、「[[青灯社]]」を核にした製作体制に切り替えた。不採算作品が多くリスクの高い製作部門を外部化、外部からの買取作品、委託引受け作品の配給に力を入れ、自社の興行網を維持する経営形態に移行した。<br />事実上、映画製作会社ではなくなり、配給や不動産部門、芸能事務所である東宝芸能へ軸足を移しながら経営合理化だった。映画製作の本数が急激に減った分、テレビ部の奮闘が目立つようになり、『太陽にほえろ!』、『俺たちは天使だ!』などがヒット。ただ、70年代までは砧撮影所は使用せず、国際放映や円谷プロに孫受け発注したり、東京美術センターなどの傍系スタジオを使用するケースが多かった。東宝配給の劇場映画でも、実際は大映京都撮影所(勝プロダクション作品など)や日活撮影所(ホリプロ作品など)で製作するものが増えた(これらの映画は監督やメインスタッフも大映系、日活系が殆ど)ため、砧撮影所は急速に稼働率が低下、人員も離散した。ベテランの岡本喜八、堀川弘通両監督を解雇した1977年を、一時代の区切りとする意見もある。

1990年代に入ると、自社での邦画製作は「ゴジラ シリーズ」を除きおこなわれなくなり、主にテレビ局や外部プロダクションが製作した映画を配給し、成功をおさめた。<br />1980年代半ばまでは当時人気アイドルだった斉藤由貴や沢口靖子主演のアイドル映画を東宝映画が製作するなどの活動は継続。この頃からアニメーションの製作にも関与するようになる。

2000年以降は、ワーナー・マイカル・シネマズが優位に立っていたシネコン市場に本格的に参入し、2003年の[[ヴァージン・シネマズ・ジャパン株式会社]](現、[[TOHOシネマズ株式会社]])の買収で、グループ企業のスクリーン数ではNo.1を誇る。

製作会社(テレビ局が多い)も大予算をかけた自信作は興行に強い東宝へ配給委託したがり、それがまた数字を積み上げるという好循環が重なった結果、1980年代前半までライバルとして競り合ってきた東映や松竹に業績で大きな差をつけている。

近年は、東宝本体で製作委員会に参加するなど、映画製作にも積極的。

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