ばんゆうのライトノベル論考

現代の小説に見る「モドキ」の構造 −擬小説としてのライトノベル−

本文

はい-かい【俳諧・誹諧】 
 1.おどけ。たわむれ。滑稽。下学集「俳諧、ハイカイ、戯義」 
 2.俳諧歌の略。 
 3.「俳諧の連歌」の略。 
 4.俳句(発句)・連句の総称。広義には俳文・俳論を含めた俳文学全般を指す。 
はいかい-か【俳諧歌】 
 1.滑稽味を帯びた和歌の一体。万葉集の戯笑歌の系統をひき、古今集巻19に誹諧歌として
多くの作を収める。ざれごとうた。はいかいうた。 
 2.鹿都部真顔(しかつべのまがお)が1808年(文化5)頃から主張した狂歌の作風。天明調
狂歌の方向を是正するため、古今集以来の俳諧歌に依拠しようとしたもの。 
ざっ-たい【雑体】 
 2.和歌で、長歌、旋頭歌、仏足石歌体、混本歌など短歌以外の歌体、および俳諧歌・折句
歌など特殊な技巧の歌の体の総称。ざってい。 
もどき【擬き・抵牾・牴牾】 
[一]《名》 
 1.他のモノに似せて作ること。また、作ったもの。まがいもの。 
 3.日本の各種の芸能で、主役をからかったり動作をまねたりして、主に滑稽を演ずる役。 

(以上、「広辞苑第五版」より抜粋引用、丸数字を数字に変更)


こきんわかしゅう【古今和歌集】 
 古今和歌集は、醍醐天皇の勅命によって編まれた初めての勅撰和歌集。延喜五年(905年)
頃成立。略称「古今集」。真名序は紀淑望、仮名序は紀貫之が執筆した。和歌集としてだけ
でなく、古今和歌集仮名序は日本最古の歌論としても文学的に重要である。
 天皇が勅命を出し、国家事業として和歌集を編むという伝統を確立した書でもあり、八代
集・二十一代集の第一に数えられる。平安中期の国風文化確立にも大きく寄与し、『枕草
子』では古今集を暗唱することが平安中期の貴族にとって教養とみなされたことが記されて
いる。
 20巻で構成され、歌数は総勢1111首。その中に長歌5首・旋頭歌4首を含む。残りはすべて
短歌。仮名序と真名序の二つの序文を持つ。内容はほぼ同じである。仮名序は紀貫之の筆。 
:構成:20巻からなる本文は、春(上下巻)・夏・秋(上下巻)・冬・賀・離別・羇旅・物名
・恋(1-5巻)・哀傷・雑・雑体・大歌所御歌に分類されている。古今和歌集で確立されたこ
の分類は、和歌の分類の規範となり、歌会、歌論などにおいて使われただけでなく、後世の
勅撰和歌集に形を変えながら継承され、また連歌におけるさらに細分化された句の分類の基
礎ともなった。 

(以上、「ウィキペディア」より抜粋)


 さて、誹諧とはなんであるか、雑体とはなんであるか、などざっと辞書から引用してみた。見ての通り雑体とは「以外」「特殊」という言葉で語られるとおり、正体でないモノを表している。つまり、正体を定義しなければ雑体も定義できず、逆に雑体を定義する事で正体も定義することともいえる。  辞書にもあるように、雑体とは歌体、すなわちハード的な側面と、技巧、すなわちソフト的な側面の両方から定義づけがなされるものである。これは、基準が一定でない事を示している。


 古今集は全20巻で、1〜18巻と、19巻、20巻に分けることができる。誹諧歌とは、この巻19に多く出てくる歌である。そして、この巻19が同時に雑体歌をまとめたものでもあるのである。  その巻19の歌を見ると、古今集の他の巻、および後世の勅撰集では使われない(使えない)語が多く出てくる。たとえば、擬音語や擬態語。それに、身体語などである。  また、内容上でも和歌と違う点がある。普通の和歌と比べて、「面白さ」という条件で線引きすることができる。面白さ由来の性質、面白さのあり方、という意味である。

 「誹」「諧」の文字は、それぞれ、「そしる」「たはぶる」という意味である。重要なのは、「諧」のほうで、このたわむれる(=遊ぶ)というのは、俳優(わざおぎ)であり、つまり滑稽な演技をすることで神人を楽しませることである。古くは古事記などでアメノウズメ命が「巧みに俳優す」としたりしたもので、芸能が本質的な性質として笑いを含んでいる事を示しているといえる。  また、民俗学者の折口信夫は、この「そしる」「たはぶる」を「モドキ」の構造として捕らえた。モドキとは、正当・中心・本格的な物に対して、別の物を持ちだして対立し、非難するモノである。この場合は、同じような形をしていながら、雁行な対立を見せていると言える。  このモドキの例としては、猿楽能の原型としての「翁」が上げられる。さらに広げて言えば「能」(悲劇・舞踊劇)に対するモドキとして「狂言」(喜劇・科白劇)の関係も指摘できる。


 このモドキの構造の原型は、折口の稀人論に詳しい。稀人(=神)の招ぎ代としての行為が、モドキであるという。  誹諧(雑体)は、こうして考えると、正体和歌に対するモドキとなっていると言える。そして、そのモドキ・笑いという自由な領域から新しいジャンルもまた生まれてくる事になる。たとえば俳諧歌の中から釈教歌のようなものが生まれてきたのがいい例である。

 このように、誹諧歌とは、本来の和歌をカリカチュアライズした新しく自由な表現技法であり、それ故に雑体とされたのである。



 さて、以上を踏まえて、表題のライトノベルである。  ライトノベルとは80年代に黎明を迎え、90年代から本格的に確立された、少年向け小説である。一般に、頻繁な改行、アニメ調の表紙、そして社会性のない内容。読むマンガとも呼ばれるジャンルである。およそ「文学」とはほど遠い娯楽小説であり、一時期は悪評紛々たる様子で叩かれたりしていたが、最近では研究書も出るほどにはなった。  さて、このライトノベルだが、今までその本質を捕らえた論を、残念ながら寡聞にして知らない。多くのライトノベル論考のすべてが、ライトノベルを枠で囲って定義しようと試み、失敗している。


 このような「ライトノベル」とは、一体何であろうか。  簡単に言うと「小説の文体を真似た、だがしかし小説のルールから外れたもの」であり、つまり折口学でいうところの「モドキ」の構造、あるいは古典文学で言うところの「誹諧」。 それこそが、ライトノベルの本質である。小説を正体とすれば、ライトノベルは雑体であるともいえる。  ライトという言葉に迷わされ、既存の論考ではライトノベルを「軽い」とか、「読みやすい」とか説明しようとしていた。だが、実際には小説というルールから外れた、異端。 小説の真似をして、しかし小説とは非なるもの。小説を揶揄し、あるいは非難し、または諷刺する存在。あるいは、「面白い」という価値観における、「小説」の再構築。ライトノベルとはそういう存在である。


 たとえば、ハード的な面で言えば、「スレイヤーズ」(神坂一/富士見書房)が多用した「一段落一行」という書体。「撲殺天使ドクロちゃん」(おかゆまさき/メディアワークス)で採用された「セリフにカッコ書きで発話者を書き込む」ト書き形式。また、新井素子の採用した「読者に語りかける形の一人称」や、あかほりさとるの「地の文とキャラクターの会話」など、既存の小説のルールから外れた表現方法が実に多種多様に存在する。これら異端の表現方法が、ライトノベルのライトノベルたる所以である。  ここで大切なのは「わかりやすさを優先したこと」は、重要ではないという事である。大事なのは、「小説のルールから外れた」という部分。そして、その「外れる」ための原動力が「(モドキの持つ)面白さ」ということになる。


 これは、小説をどのように定義するかによってしまうのだが、ライトノベルはもはや小説としての規格に立ってる、とはいえないかもしれない。小説の様相を真似ている、というだけで。だが、少なくとも権威や伝統に裏打ちされた、正統な「小説」にはならない。それは、川柳を俳句と呼ばないのと同じである。


 また、ソフト的な面に置いても、ライトノベルの異端性を論じることができる。

 「読むための理論」によれば、小説の作者・読者には、大きく分けて3種の存在があるという。すなわち、内包される作者/読者、想定される作者/読者、そして実際の作者/読者である。

 このうちの内包される作者というのは、「地の文の語り手」である。同じく、内包される読者とは、「地の文の聞き手」である。例を挙げれば、「太郎は、花子が転ぶのを観て笑った」という一文において、太郎が笑っているのを「見」て「伝え」ている人が内包される作者であり、その作者の語り先が内包される読者である。これは非常に観念的な存在であると言えよう。

 次に、想定される作者/読者である。想定される作者としてよく引き合いに出されるのは、森鴎外の「舞姫」である。舞姫の主人公「豊太郎」は、森鴎外(本名:林太郎)そのものである、と言われる。この舞姫のエピソードは、鴎外自身の経験からくるものだ、と。これは、鴎外という作者を、我々が想定した上での読解となり、この我々読者が想定する鴎外という人物像が、その名の通り想定される作者ということになる。翻って想定される読者とは、たとえばその小説が掲載される雑誌を読むであろう年齢・性別・身分・国籍などの人である。


 ライトノベルというものは、この想定される読者を非常に重視する。たとえば、富士見ファンタジア文庫というレーベルから出版されるライトノベルは、基本的に「月刊ドラゴンマガジンの読者」というものを想定している。それはつまり、「ドラゴンマガジン」の大賞読者層であるところの、マンガやアニメに興味がありゲーム(特にロールプレイングゲーム)を愛好する中高生、である。

 「スレイヤーズ!」(神坂一富士見書房)がものすごい賛否両論の中、鮮烈にデビューし、そしてライトノベル黎明期の代名詞となったのは、ここに理由がある。つまりどういうことかというと、スレイヤーズは、「想定される読者=実際の読者である」という断定の元で書かれているのである。これは大変な思い切りの良さで、当時としては非常に斬新、それ故に危険だとも言われた。


 具体例を挙げてみよう。  「上半身裸の、『私は盗賊の頭です!』と力説しているかのよーな風貌だった。」(一巻・八頁)。

 ここで、男について具体的に描写しているのは「上半身裸」という部分だけである。これでは、通常読者が頭に浮かべるイメージに差異がありすぎ、作者のイメージが伝わらない。  しかし、これが許されるのは、読者が「ゲームファン」に限定されているからである。一般にロールプレイングゲームでは、盗賊というのはザコモンスターであり、キャラクターに一蹴される。その、いわゆる「お約束」を、小説の描写の中に取り入れているのである。

 つまり、内包された読者は、この盗賊のキャラクターを「上半身裸」ではなく、「『私は盗賊の頭です!』と力説しているよーな風貌」に見るのである。それによって、読者はこの人物が「盗賊であること」「主人公より弱いこと」「おそらく、粗暴で無知であること」「すぐにやられて物語から退場すること」「物語に於いて、なんら重要でないこと」を、すべて瞬時に理解するができるのである。  スレイヤーズ!は、この「お約束」の多用によって、小説でありながらマンガの様な速度で読めるという難題をクリアしたのである。同時に、主人公リナの一人称というスタイルによって、会話調の文章を増やし、描写を最低限に止めることで、更なるスピードアップを図り、同時に主人公への感情移入を容易にし、体感的な速度を早めることにも成功している。このように二重三重にも巡らされた技法によって、スレイヤーズは異例の読感を生み出した。  ストーリーの骨子は基本的には一人称視点に依存した形のサスペンスだが、それを巧みなノリのいい文章と、カタルシスを感じさせる展開で覆い隠している。その為か「カタルシスを得る為だけの小説」「読者に状況を理解させない曖昧すぎる描写」などと酷評されることも多いが、実際にはこのような技法を用いて、読者のリーディングストレスを減らすことを試みている傑作であるといえる。


 つまり読者を限定することで、その限定された読者にとっては、より面白く、より楽しくなるように工夫されている。「盗賊の頭」が何を意味するか分からない様な人は、そもそも想定外であり、考慮する必要がないと断じているのである。もっと云えば、そんな人たちに読んで貰うことは期待していないし、そんな人たちに読んでもらおうとも想ってない。極論すれば、読むな、ということでもある。これは現在ののライトノベルでは、当たり前となってしまった技法ではあるが、当時は画期的であった。

 現在のライトノベルには、たとえば「魔法」が当たり前に出てくる。そこに疑問はほとんど挟まれない。あるいは中高生が世界を護る戦いに赴く。そこに疑問はやはり挟まれない。それを「当たり前」としてしまうことを、「読者の限定化」と呼ぶのである。  そして、その「読者の限定化」というのは、小説のルールには無い。だからこそ、これらの小説は擬小説、すなわちライトノベルと呼ばれるのである。  ルールの外にあるものがライトノベルであるから、ライトノベルを一意的に定義することはできない。それを定義しようとしたのが、既存のライトノベル論の敗因である。


 極論を承知で云えば、折口民俗学的視点において、このようにライトノベルとは「面白さ」をその原動力として、芸術ではない芸能を楽しもうとする現代人の心が生んだ、低迷した小説界における必然であると言えるのではないだろうか。

文責

十一代目三遊亭夜遊 as Banyu11th

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