エクリチュール

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フランス語表記で“?criture”。哲学用語と言われ、実際、現代思想で重視されるが、細かく言えば言語思想の用語であり、批評文芸でも用いられる。他に、音楽用語としての「エクリチュール」もある。

フランス語原義

フランス語“?criture”の原義は、英語の“Writing”に相当する。つまり「書く行為」「作文」、他を同時に含意している。

音楽用語

概ね「作曲に用いられる技法の総体」といった意味。

例えば、和声や対位法、楽式、といった作曲技法のは、それぞれ「エクリチュール」のサブ・カテゴリーになる。同時に、「ある特定の曲のエクリチュール」は、「その曲で用いられている多種の技法が複合して生むコンボの効果」といった含意になる。

言語思想の用語

言語思想の用語としては、ロラン・バルトジャック・デリダが、新しい意味を込めて用いはじめた。

「書かれたもの」と訳される事が多い。

まま、「書記言語」「文字言語」と訳される事もあるが、こちらは誤解を招き易いとして退けられがち。ただし、「書かれたもの」の訳語も、別の誤解を招き易い。

まず、“writing”に相当する「エクリチュール」が含意している「書く行為」の方が、軽視されがちになる。

また、「エクリチュール」は、「個々の書かれた文章」だけを限定して意味するわけではない。英語の“writing”を思い起こすといい。

「書かれたもの(エクリチュール)」は、むしろ「作文から読み取ることのできる、書く行為の作法」を、言語感覚や、言語習慣の蓄積と関係づけて論じる用法で使われた。この辺の用法は、音楽用語の「エクリチュール」を参照すると、理解し易いだろう。

「エクリチュールは、(戦略的に用いられる)用語であって、意味が限定された概念では無い」とも言われる。


ロラン・バルトは、エクリチュールを「ディスクール」と共に、「(ある時期のある社会階層、または、グループに)特徴的な(特徴的だった)言い回し」といった意味合いで用いた。例えば「フランス革命期のエクリチュール」とか「インテリのディスクール」といった具合だ。

ロラン・バルトのいう「エクリチュール」「ディスクール」は、作家に固有な作家性と結び付けられる「スティル(文体)」よりも広く、「人々の私的生活と公共圏との間で流通するような“言い回し”」といった意味だった。


ジャック・デリダは、「私的使用される話し言葉」といった意味でパロールを用い、「エクリチュール」は、もっぱら左記の意味でのパロールと対照して用いる事が多かった。

これは、「文語/口語」を対立的に整理して、言語の性質を説明しきれると考える先入観と、別の言語観を整理するための戦略だった、と解される事が多い。

もちろん、ヨーロッパの伝統的な言語観を前提にしての「戦略」だ。

デリダが異義を唱えたのは、例えば「文字言語は、口語(パロール)を過不足なく写し取る補助手段だ」といったタイプの伝統的な言語観だった。ジャック・デリダがエクリチュールを用いて論じた言語論は、脱構築批評の理論的な基盤をなした。


バルト、デリダ以降も、「エクリチュール」は様々な論者によって、様々な戦略に用いられ、その含意は一定しない。「意味が限定された概念ではなく、用語だ」と言われる理由だ。

ただし、どのような戦略に用いられても、「私的使用される話し言葉(パロール)」と対照される「書かれたもの=書く行為」の特質が、作文技法の蓄積との関連で強調されるはずだ。

メモ

  • バルトの「エクリチュール」は、例えば(バルトの著作にあるかどうかはわからないが)、「下町風のエクリチュール」とか、「女性らしいエクリチュール」といった具合に用いることもできる(実際、バルト以降も用いられている用法)。
    この場合の「エクリチュール」(及びディスクール)は、「パロール」と対立するわけではないが、対比すれば、パロールよりも広い範囲で流通する(あるいは、した)言い回し、といった意味になる。
  • デリダの場合、「エクリチュール」と「パロール」は対照されたのであって、対立項としては考えられていない。「対立するかに考えられることもあるが、実は、パロールもエクリチュールに規定されている(エクリチュールの根源性)」と、いった論の運びがデリダの論の戦略だった。
  • デリダの言うエクリチュールは、「規範文例(パラダイム)の伝統」を意味するわけでも無い(この点はバルトも同様)。「音楽用語のエクリチュール」と、少し異なる。
    「文字言語は、口語(パロール)を過不足なく写し取る補助手段だ」といった先入観は、「口語(パロール)にも規範的な作法がある」といった考えを導く。この類の発想は、ある種の錯覚(倒錯した思考の結果)だ、というのもデリダの主張だった。

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